J・J⑦
終章 心軽く、日はあざやかに
『ルソーは少しでも自分の心を癒そうと、これまでの社会に対する不満を正直にぶつけ、「社会契約論」と大論文「エミール」を書き上げた。しかし、キリスト教や哲学的懐疑主義に批判的であったこの二冊は焚書処分にされ、さらに危険思想者としてルソーに逮捕状が出された。フランスを追われたルソーは、逃げるようにイギリスに亡命した。
『1766年。ロンドンから離れたダービーシャー州、ウットン。ルソーは狂気の中を迷走していた』
幕間
にぎわう公園、芝生の片隅でルソーがうつろな様子で呟く
「…なことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを…」
エミルがルソーのもとに駆け寄る
「ルソーさん!もう、またこんなところで日向ぼっこですか。取るものも取らず、毎日こんなところで黄昏て」
「…」
「なんか買ってきますね、少しでも何か食べないと死んじゃいますよ」
反応のないルソーにため息をもらしエミルが走っていく
小休止
「…時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人がすることはすべて、繁栄をもたらす…」
「これがあのジャン=ジャック・ルソーとはね」
「あー…?」
顔を上げたルソーの目の前にエティエンヌ
「…エ、エティエンヌ・プランシー!」
「ごきげんよう、ジャン=ジャック君」
「き、貴様!貴様のせいで、ディドロは…、マダム・ドゥードトは、そして私はぁ…!」
「すべて私のせいだとでも言うのか?ジャン=ジャック君」
「そうだ!全て貴様がぁ…!」
掴みかかろうとするルソーをエティエンヌがかわす、ルソーよろめく
「言いがかりはよしてもらおうか。デピネー夫人というものがありながら、他の女に手を出したのは誰だ?そうまでして愛した女の心をものに出来なかったのは誰だ?親友を疑い、貶めたのは誰なのかね、ジャン=ジャック!」
「き、詭弁だ…!」
「ならばなぜ逃げる!貴様は悔しくないのか?どうしてこんなところでくすぶっているんだ!」
「なんだとぉ!」
「前に言わなかったか?つらい時でも自分を見失うな。…おまえは人の悲しみがわかる子だろう。苦しんでいる者たちがいなくなったわけではないのだぞ、ジャン=ジャック・ルソー…!」
「あっ…」
「おまえはまだ自分の夢を掴みきったわけじゃない」
「エ、エティエンヌ・プランシー、あなたは、やはり…」
暗転
「ルソーさん!起きてくださいよ!こんなとこで寝てたら風邪引きますよ!」
目を覚ましたルソーの前にエミル
「あ、あれ?エミル…」
「もう、こんなとこで寝て何うなされてんですか!」
「なっ!?…夢、だったのか?いや、あれは…」
「何寝ぼけたこと言ってんですか。寒くなってきたから帰りますよ!」
「そうだな。帰るぞ、エミル。フランスに!」
「はい?」
『1770年、ルソーは依然逮捕状が出されたままのフランスに戻る。そこで、長年書き続けていた「告白」を出版する。その後、「ポーランド統治論」、「対話。ルソー、ジャン=ジャックを裁く」など次々に発表。ルソーの中にすでに狂気はなかった』
幕間
『1775年。パリ』
街を臨む橋の上、年老いたルソーとエミル
「お互い、年をとったな、エミル」
「なぁに、まだまだこれからですよ、ルソーさん。それに俺の気持ちはあの頃のままですよ。あなたに助けられた色違いの瞳の少年の時のまま…」
「そうかもな。…しかし、私は変わったよ。多くの者を傷付け、そして失った」
「ルソーさん…」
「私はなにも掴んではいない。いや、私はまだ自分が何を掴もうとしているのかすらわからないでいるのかもしれない」
「…けれど、そのルソーさんに沢山のものを与えられた者がいることを忘れないでください。俺なんかルソーさんにもらいっぱなしで、何も返してはいませんしね」
「エミル…」
「ところで、あのエティエンヌ・プランシーが評議会を追放されたこと知ってましたか?」
「エティエンヌが?」
「ええ、なんでも革命を企てようとしていたそうですよ。以前からそんな素振りを見せていて、王室からも目を付けられていたようです」
「そうか。革命、か…」
「今はどこで何をやっているのか。教会で異端審問にかけられたとも、どこか外国に逃げたとも噂されていますけどね」
「…行こう、エミル」
風が吹き抜ける
目を瞑るルソーの耳に声が響く
「ルソー…」
「に、兄さん?」
「ルソー、風が吹く!」
「兄さん、…フランソア兄さん!」
目を開けると元の景色、隣にエミルがいる
「どうしたんですか、ルソーさん?」
「あっ…。いや、なんでもない。…エミル、風が吹くぞ」
「え?」
「この国に、大きな風が吹くぞ!」
渦巻く風が空に霧散する
『その後、ルソーは「孤独な散歩者の夢想」を書く。この作品には、自然の描写と、驚愕すべき瑞々しさ、美しさを前にした人間の姿が描かれている。それはルソーの一生、そのものであった。
『1778年、7月2日。ルソーはエルムノンビルの後見人であるルネ・ド・ジラルダン侯爵の館でその生涯を閉じた』
『フランスに風が吹くのは、彼の死後、半世紀を経過した後であった』
終幕
『ルソーは少しでも自分の心を癒そうと、これまでの社会に対する不満を正直にぶつけ、「社会契約論」と大論文「エミール」を書き上げた。しかし、キリスト教や哲学的懐疑主義に批判的であったこの二冊は焚書処分にされ、さらに危険思想者としてルソーに逮捕状が出された。フランスを追われたルソーは、逃げるようにイギリスに亡命した。
『1766年。ロンドンから離れたダービーシャー州、ウットン。ルソーは狂気の中を迷走していた』
幕間
にぎわう公園、芝生の片隅でルソーがうつろな様子で呟く
「…なことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座らず、主の教えを愛し、その教えを…」
エミルがルソーのもとに駆け寄る
「ルソーさん!もう、またこんなところで日向ぼっこですか。取るものも取らず、毎日こんなところで黄昏て」
「…」
「なんか買ってきますね、少しでも何か食べないと死んじゃいますよ」
反応のないルソーにため息をもらしエミルが走っていく
小休止
「…時が巡り来れば実を結び、葉もしおれることがない。その人がすることはすべて、繁栄をもたらす…」
「これがあのジャン=ジャック・ルソーとはね」
「あー…?」
顔を上げたルソーの目の前にエティエンヌ
「…エ、エティエンヌ・プランシー!」
「ごきげんよう、ジャン=ジャック君」
「き、貴様!貴様のせいで、ディドロは…、マダム・ドゥードトは、そして私はぁ…!」
「すべて私のせいだとでも言うのか?ジャン=ジャック君」
「そうだ!全て貴様がぁ…!」
掴みかかろうとするルソーをエティエンヌがかわす、ルソーよろめく
「言いがかりはよしてもらおうか。デピネー夫人というものがありながら、他の女に手を出したのは誰だ?そうまでして愛した女の心をものに出来なかったのは誰だ?親友を疑い、貶めたのは誰なのかね、ジャン=ジャック!」
「き、詭弁だ…!」
「ならばなぜ逃げる!貴様は悔しくないのか?どうしてこんなところでくすぶっているんだ!」
「なんだとぉ!」
「前に言わなかったか?つらい時でも自分を見失うな。…おまえは人の悲しみがわかる子だろう。苦しんでいる者たちがいなくなったわけではないのだぞ、ジャン=ジャック・ルソー…!」
「あっ…」
「おまえはまだ自分の夢を掴みきったわけじゃない」
「エ、エティエンヌ・プランシー、あなたは、やはり…」
暗転
「ルソーさん!起きてくださいよ!こんなとこで寝てたら風邪引きますよ!」
目を覚ましたルソーの前にエミル
「あ、あれ?エミル…」
「もう、こんなとこで寝て何うなされてんですか!」
「なっ!?…夢、だったのか?いや、あれは…」
「何寝ぼけたこと言ってんですか。寒くなってきたから帰りますよ!」
「そうだな。帰るぞ、エミル。フランスに!」
「はい?」
『1770年、ルソーは依然逮捕状が出されたままのフランスに戻る。そこで、長年書き続けていた「告白」を出版する。その後、「ポーランド統治論」、「対話。ルソー、ジャン=ジャックを裁く」など次々に発表。ルソーの中にすでに狂気はなかった』
幕間
『1775年。パリ』
街を臨む橋の上、年老いたルソーとエミル
「お互い、年をとったな、エミル」
「なぁに、まだまだこれからですよ、ルソーさん。それに俺の気持ちはあの頃のままですよ。あなたに助けられた色違いの瞳の少年の時のまま…」
「そうかもな。…しかし、私は変わったよ。多くの者を傷付け、そして失った」
「ルソーさん…」
「私はなにも掴んではいない。いや、私はまだ自分が何を掴もうとしているのかすらわからないでいるのかもしれない」
「…けれど、そのルソーさんに沢山のものを与えられた者がいることを忘れないでください。俺なんかルソーさんにもらいっぱなしで、何も返してはいませんしね」
「エミル…」
「ところで、あのエティエンヌ・プランシーが評議会を追放されたこと知ってましたか?」
「エティエンヌが?」
「ええ、なんでも革命を企てようとしていたそうですよ。以前からそんな素振りを見せていて、王室からも目を付けられていたようです」
「そうか。革命、か…」
「今はどこで何をやっているのか。教会で異端審問にかけられたとも、どこか外国に逃げたとも噂されていますけどね」
「…行こう、エミル」
風が吹き抜ける
目を瞑るルソーの耳に声が響く
「ルソー…」
「に、兄さん?」
「ルソー、風が吹く!」
「兄さん、…フランソア兄さん!」
目を開けると元の景色、隣にエミルがいる
「どうしたんですか、ルソーさん?」
「あっ…。いや、なんでもない。…エミル、風が吹くぞ」
「え?」
「この国に、大きな風が吹くぞ!」
渦巻く風が空に霧散する
『その後、ルソーは「孤独な散歩者の夢想」を書く。この作品には、自然の描写と、驚愕すべき瑞々しさ、美しさを前にした人間の姿が描かれている。それはルソーの一生、そのものであった。
『1778年、7月2日。ルソーはエルムノンビルの後見人であるルネ・ド・ジラルダン侯爵の館でその生涯を閉じた』
『フランスに風が吹くのは、彼の死後、半世紀を経過した後であった』
終幕
by zan9h | 2010-04-04 23:41 | J・J | Comments(0)